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自由が導く教養〜『丘の上の本屋さん』にみる教養のあり方
こんにちは皆さん。あっちぃーーーーですね!!
そんな暑い時により温まるハートウォーーーーミング!!な映画について今回は書いていきます。笑
映画のタイトルは『丘の上の本屋さん』(2021年公開)。
「イタリアの最も美しい村」と呼ばれるチヴィテッラ・デル・トロントにある古書店を舞台に店主リベロと人々の交流を描きます。
以前、私は「今日は映画の気分!」という日に近所の映画館でたまたま上映していて劇場で見ることができました。
上映開始まで時間がなく売店でホットココアをギリギリ買って入ったのを覚えています。
主人公のリベロは古書店の店主。いつもきちんと整えられた白髪に、ワイシャツの上ににニットのベストを着込みややくたびれたジャケットという風貌で店を開けます。
店を開けると隣のカフェでウェイターとして働くニコラが声をかけてくれます。
ニコラは見た目はチャラチャラした若い男性という感じですがかなりリベロの体調を気遣ったり、好きな女の子には一途な好青年です。
ニコラから見るとリベロは祖父と思われてもおかしくない年齢ですが親密さと敬意が入り混じる彼らの関係は友人のようです。私的にこの作品の中で特に好きな人物でした。
そのニコラが想いを寄せるのはキアラというお金持ちのマダムの家で家政婦をしている女性です。
キアラはマダムに頼まれた「フォトコミック」を探すためにリベロの店に訪れます。「フォトコミック」とは映像を静止画にし、それを切り取ったものを漫画のようにコマ割りして書籍という形でも映画を楽しむものだそうです。
残念ながらリベロの店には置いていな買ったので想い人のためにニコラが「一緒に探してあげる!」とキアラに提案すると「私婚約者がいるのよ?」…それでもニコラはめげないようです。笑
店には毎朝ゴミ置き場から本を見つけては売りに来るボジャンという男性がいます。
ある時持ってきたのは数冊の本と、一緒に捨ててあった誰かの日記でした。日記の主人は1950年代にキアラと同じように家政婦として働いていた若い女性でした。
リベロはその日記を店番をしながら、机の上にあるオルゴールを鳴らして少しずつ読んでいきます。
ある日店先の木箱に入れて売っていた漫画をじっと見つめる少年がいました。
名前はエシエン。ブルキナファソから移住して6年になるということでした。
本は大好きだけど本の代金を払えないから読めないというエシエンにリベロは「また返しにきてくれるなら貸してあげよう」と言います。
「必ず返すよ!」それからリベロとエシエンの不思議な交流が始まっていきます。
リベロの店に訪れるお客さんは皆なかなかの曲者ぞろい…数十年前に出版した自著を探して月に何度も訪れる大学教授、「友人の心理学者が探している」とはいうものの絶対本人が探しているSM系の官能小説を探すセクシーな女性、やや民族差別気味の思想に傾倒していて自国の英雄について書かれた本を探すスキンヘッドマッチョ男…などなど。
もちろん本が好きなお客さんもいます…有名な傑作小説の初版本を注文し「恥ずかしい告白をしてもいいか?」と前置きして「実はユリシーズには何度も挑戦したのだけれどどうしても読みおおせなかった」と本読みならではのお茶目なあるあるを告白する白髭の紳士、街の教会の神父でありながらも自らが所属している教会がこれまで発禁という形で自由な思想を禁じてきたことを恥じ(知的好奇心が大きいだけかもですが笑)リベロの店の発禁本コーナーから「必ず返しにくる」と言って借りていく神父さん…など。
神父さんとの店でのやり取りを見ていたニコラは「またそんな慈善事業をして」と呆れた様子です。
貸した本は返ってこない。リベロもどこかそれを承知で本を渡しているように見えます。
しかし唯一エシエンは次の日に本を返しにきました。本の貸し出しは続き、3冊目に入ろうという時「マンガはもう卒業だ。他のにしよう。」と言ってリベロは『ピノッキオの冒険』を差し出します。「読んだら感想を聞かせておくれ。」
リベロはエシエンに本を貸すことで彼の将来につながる教養を授けようとしたのです。
もちろん、日頃店でもなかなか出会えない純粋な本好きに出会えた喜びからただエシエンと本の話をしたかったところもあるでしょう。将来は医者になりたいというエシエンですが、店先で安売りされているマンガすら買うことができないところから見るとあまり経済状況はよくないようです。
そんな彼に年老いたリベロができることは古書という自分のテリトリーからできる限りの教養を与えること、共有することでした。
リベロはエシエンが本を返しに来ると、いつもオルゴールを鳴らしながら日記を読んでいた机に呼び寄せて、エシエンと向かい合わせになるように座り読んだ本の感想を聞きます。
この状況とよく似た状況を私は体験したことがありました。
私は美大だけでなく普通の四年生大学にも通っていたという変な経歴を持っているのですが、四年生大学の一年時の初めに上京、大学生活、一人暮らしという大環境変動に体がついていかずやむおえず療養することになってしまい、本来であったら一年時の前期にやる授業を後期に受講することになってしまいました。
その授業は、大学生として覚えるべきレポートの書き方や参考書類の探し方などを簡単なゼミ形式で一人の教授に10人くらいの生徒がレポートを実際に書きながら教わっていくっものでした。
しかし私が受けた後期の授業では前期に単位を落とした困ったちゃんたちへの救済措置といった雰囲気の授業だったので一人の教授に対して私含めて2人の生徒しかいませんでした。
教授はダンディな白髪の紳士で、リベロのような落ち着きのある人物でした。
毎週授業後に出される課題は「自分の好きな本、興味のある本を読んでその内容を要約し、最後その本に対する自分の意見を書いたレポートを書く」ことでした。
唯一いたもう一人の生徒はほとんどサボっていて、実質、毎週教授とマンツーマンでレポートに書いてきた本についてああでもないこうでもないと自由に話す時間になっていました。
その時間がリベロとエシエンの状況となんだか似ていると感じました。
リベロがエシエンに貸し出す本はその時のエシエンにとっては少し難苦感じるものや古い作品ではあるが現代に読んでも学びのある本でした。
私は課題内容的には何を読んでも良かったのですが、レポートを教授に読んでもらい教授と「どうしてこういった意見になったのか?」「どこが面白いと感じたのか?」など意見交換をすると大体教授は教授室の本棚の中から「これも読んでみるといい」「こんな本も君なら読めそうだ」とさまざまな本を勧めてくれました。
その中には名作中の名作だけど有名すぎて手に取ったことのない本もありました。
ジョイスの『ユリシーズ』やサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』などなど…。(教授も『ユリシーズ』は何度も挫折して「読み切ったのは最近なんだ」と笑いながら教えてくれました。)
こうした少し難しいと感じるような本を一人で読み始め、読み切るのはこれまた難しい…頑張って読んでも何が書かれているのかわからなすぎてモヤモヤする…。
そんな時に自分に必要そうな本を差し出して、その本から自分が感じたことを否定することなくより深い洞察に至れるような質問を投げかけてくれる、エシエンにとってのリベロのような存在である教授に出会えたことは私にとって幸運でした。
リベロはエシエンと本の話をするときにたくさんの金言を話します。
それはもちろん目の前にいるエシエンに向けて放たれた言葉なのですが、見ている観客にも「本を読むとはどういう行為なのか」「教養を持つというのはどういうことなのか」を語りかけてくれます。
「注意深くお読み。本は2度味わうんだよ。最初は理解するため、2度目は考えるためだ。」「ゆっくり読んでごらん?すると中身が染み込んでくる。するとある日不意に現れるんだ。」「物語というのはとても奥が深い。最初に感じたことが全てじゃないんだ。読むことでじっくり考えることができる。」「本は自分で読まなきゃわからない。食べ物と同じだよ。食べてみなけりゃ好きなものかわからない。」
ちなみに私が好きなリベロの言葉は「遊びも大事だぞ?」です。
いつものようにリベロの店に訪れたエシエンは店の扉に「喪中のため閉店」と書かれた張り紙を見つけます。リベロはなんらかの持病があったようです。
その日エシエンが返しにきた本は『世界人権宣言』でした。エシエンにそれを貸すときリベロは「この本は退屈に見えるかもしれないがしっかり読んでほしい」といつになく真剣な面持ちで渡した本でした。
死期を悟ったリベロが移民であり、貧しいエシエンのために選んだ最後の本でした。
店先に立ち尽くすエシエンにニコラが「リベロからだ」と言って手紙を差し出します。
そこには店の本が処分される前にエシエンが好きなだけほしい本を持ち出せるよう手配してあること、遠慮せずうんと欲張ってもらってほしいこと…そして一番大事なのは最後に渡した『世界人権宣言』に書いてあること…「人にとって最も大切なのは幸せになる権利だ」「よくお読み。愛を込めて。」
このnoteの記事を書くようになり鑑賞は楽しむだけでなく「教養」につながるということに気づいたのですが、「教養」は所詮「あったらいいもの(なくても困らないもの)」という感覚でなんとも自信を持ってお勧めできずに私なりに悩んでいました。
「教養をつけるといいですよ」というのはなんだか相手を突き放しているように思えてしまっていたのです。
『丘の上の本屋さん』を今回再度見てみて、リベロがエシエンに「返しに来てくれるなら貸してあげよう」と言ったように、読むか読まないかはエシエンの自由にすることや貸し与える本は躊躇わず今のエシエンの力になるものを充分なだけ貸したことは私の「教養」を薦めることに対する悩みを緩和させるものでした。
勧めたものから芽が出るのかどうかは受け取り手の自由です。
受け取り手が何か少しでも感じ取れたならリベロや教授のようにさらに深い洞察へ導けるようにできればいい。突き放すのではなく受け手の自由を愛すること。
これが鑑賞が得意?な自分にできる最高の愛なのかも?と今は思います。
ちなみに「リベロ」とはイタリア語で「自由」を意味します。
その名の通り自由を愛したリベロに倣い、私も面白おかしくこれからも記事を更新していけたらなぁと思います。
なかなか真面目な回になりました。次回は少し肩の力の抜けたお話になりそうです。笑また次回お会いしましょう!