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愛ってやっぱり「ギブアンドテイク」? - スピリチュアル的に「愛」を考えてみた。
誰かを愛する、という時に、「ギブアンドテイク」的な関係性を連想する方も多いのではないでしょうか?
私たちは、(自覚的に、あるいは無自覚的に)「自分が愛した分だけ他者に愛されたい」、あるいは「他者に愛された分だけ自分も愛さなければならない」という思考を持ちがちです。
けれど。
これからの時代における「愛」とは、見返りとして与えたり、与えられたりするものではないはずです。
今回のテーマは、「愛」を「ギブアンドテイク」性に、つまり要求や義務感に結びつける考え方の解体です!
・「お返し」精神における「愛」
とくに、古来「義理と人情」を大切にしてきた日本においては、「誰かから与えられた分だけ、自分も与え返さなければならない」という、「お返し」精神が普及しています。
その精神を反転させれば、自分と同じように「お返し」をしてくれない他者は、「常識のない人」として批判の対象になるわけです。
このような精神は、昔よりは顕在化することが減ってきたとはいえ、現代の私たちにも少なからず影響を与えているように思います。
「ギブアンドテイク」を重んじる考え方はその象徴です。
金銭的なやりとりや、物の交換であれば、目に見える判断基準があります。
「あの人にこれだけ価値のあるものを提供したんだから、私も見合っただけの恩恵を受ける権利があるはず」といった、シンプルな即物的考えにつながりやすい。
しかし、「愛」を「ギブアンドテイク」的に捉えようとすると、それが眼に見えるような形で測れるものではないゆえに、悩みが多くなりがちです。
とくに恋愛関係においてその悩みは生じやすいのではないでしょうか?
「自分はちゃんと記念日を覚えていたのに、相手はすっかり忘れていた。」とか、「自分はこんなに尽くしているのに、相手は休みの日もダラダラしてばっかりで、何もしてくれない!」とか。
自分の「愛」に見合った「何か」が返ってこないと、「愛されていない!」と感じてしまうわけですね。
あるいは逆に、「相手はこんなに高価なプレゼントをくれるのに、私はお金がなくて大したものをあげられない。。」とか、「相手はすごく愛情表現してくれるのに、自分は日々の仕事で忙しくて何もできない。。」とか。
相手から「何か」を与えられた時、それを「愛」の単位として換算するために、それに見合った「何か」を自分が与えられないと、「愛」が足りなくて申し訳ない、という気持ちが発生してしまうのです。
・スピ的「徳を積む」精神における「愛」
他にも、特にスピリチュアルの世界で普及しているものとして、「徳を積む」精神があります。
「相手に良いことをしたらそのぶん自分に良いことが返ってくる」という考え方のこと。
「情けは人のためならず」ということわざは、まさにこの精神の表れですよね。
この「徳を積む」精神は、仏教的な「因果応報」思想とも親和性が高いもので、わりと日本のスピリチュアル界隈において根強いものなんです。
「いつも周囲に感謝し、優しくしていれば、お金持ちになったり、幸せな結婚ができるなど、自分にも良いことが返ってくる」というような、「愛」を現世利益の手段とするような考え方。
あるいは、「他者を愛することで精神的に成長でき、魂が磨かれる」というような、「愛」を与えることをスピリチュアル的な修行に結びつけるような考え方。
このような考え方は、やはり「ギブアンドテイク」的視点から生まれており、なんらかの目的を成就させるために「愛」を利用しようとするものであるように思います。
つまり、自分がほしい「何か」を得るための手段として、「愛」を捉えているわけです。
けれども前回お伝えした通り、「目覚め」「アセンション」へと向かっていくこの時代における「愛」は、自他の境界なく、全てのものを認めるような、自然な状態のこと。
物理的な「何か」に置きかえたり、「何か」を得るための手段として用いられるようなものではないのです。
・「愛」に保証はいらない
そもそも、ここまでお話ししてきた「ギブアンドテイク」的な考え方というのは、「自分」と「他者」の境界が明確だからこそ、そして原因と結果を重視する因果律的な考え方があるからこそ成立するものです。
「自分」=「他者」という認識があれば、自分が「愛」を与えることでお返しを求めたり、「愛」を与えなければ!と苦しくなる必要はないわけです。
そして、「いまここ」の「自分」=「他者」の状態をまるごと受け入れてさえいれば、未来の「何か」を求める手段として周囲に「愛」(あるいは「愛」という名の「貸し」に近いでしょうか?)を振りまく必要もないんです。
ドイツの哲学者・社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、その著書『愛するということ』(1956)のなかで、次のように語っています。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。
(エーリッヒ・フロム『愛するということ』新訳版、鈴木晶訳、紀伊國屋書店、1991年、190頁)
このフロムの言葉は、「ギブアンドテイク」的な「愛」のイメージをまさに解体するものです。
「愛」とは、「保証」のないもの。
つまり、そこに要求や義務感はいらない。
「愛」とは、「保証」のない「希望」に身をゆだねることとそのもの。
つまり、「愛すること」それ自体が、「希望」であり、「喜び」なのです。
フロムは、「愛するということ」を「行為」と結び付けて考えていますが、それを現代スピリチュアル的に再解釈するならば。
「いまここ」に誰かと共に生き、誰かと共に存在すること自体を、「保証」なしに、自然に楽しむ態度こそ、「愛」なのだと言えるのではないかと思います。