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「統合」をめぐる哲学 〜 「弁証法」から「脱構築」へ
前回は、「目覚め」「アセンション」において重要だとされる「統合」という言葉の意味について考えました。
対立する2つのものを「統合」しよう!という時。
なんとなく、どちらかがどちらかに対して「妥協する」こと、「受け入れてあげる」ことが必要だと思われがちですが…
「妥協」は本当の「統合」ではありません。
もしあなたが「統合」という言葉を、現実離れした理想論のように感じたり、実現できないもののように捉えているのであれば。
それは「統合」を、対立する2つのものの「融和」だと考えているからかもしれません。
「統合」というのは、実は、その「対立する2つのもの」という前提を変えること。
今回は、哲学の分野で用いられる概念を使いながら、「統合」の本当の意味について、さらに深掘っていきます!
・「弁証法」とは?
「弁証法」という考え方があります。ドイツの哲学者G ・W・F・ヘーゲル(1770-1831)が提唱したことで有名な思想です。
まず、一つの主張に対しては、必ずそれに対立する第二の主張がある。
だから、その両方を矛盾なく統一し、いいとこどりをするような形で第三の主張を見出していく運動(「止揚」、ドイツ語では "aufheben"(アウフヘーベン)と呼ばれます)が重要だ。
ざっくり説明すると、これが「弁証法」の考え方です。
そしてこの、二項対立を止揚させる運動をいくどもいくども繰り返していくことが、人間が真理へと近づき、進歩していく手段であるとされます。
つまり、相反する2つを土台とし、そこから1つを抽出していくというピラミッド構造こそが、真理(あるいは、あらゆるものの「統合」と言い換えてもいいかもしれません)へのプロセスだという考え方なのです。
この「弁証法」は、特に西洋哲学においてとても重要な役割を担ってきました。
しかしここで問題としたいのは、「対立する2つのもの」が存在する、という思考の枠組みが、「弁証法」の大前提にある点です。
・「融和」を目指す思想
「対立」「相反」というのがまぎれもなく存在するものだからこそ、それをどうにか擦り合わせて、融合点を見つけていくべきだ、という、「弁証法」的な考え方が生まれるわけです。
「弁証法」が目指しているのは、異なる意見を主張する陣営同士が戦うディベートのように、その対立構造自体は変わらないまま、お互いにとって利になる形、悪く言えば「妥協」点にいたることであるようにも見えます。
だからこそ、「弁証法」には、どこか理想論のようなイメージがつきまといます。
そもそも、「2つのものが対立している」という事実が前提なのだったら、いつも上手く「融和」ができるとは限はないし、そこには少なからず努力が必要ですよね。
「弁証法」を通して分かるのは、伝統的な西洋哲学における「統合」の思想は、「対立する2つのもの」の「融和」であった、ということ。 そして実は、現代を生きる私たちも、実は無意識的に、「弁証法」的な「統合」=「融和」の思想を持ちがちです。
「対立する2つのもの」がお互いを「受け入れてあげる」ことを通して、努力の末に行き着くことができる理想状態が「統合」だ、というイメージは、まさにそこから生まれてきているように思います。
・「統合」とは「脱構築」だ
しかし、「対立」「相反」というのは、事実としてまぎれもなく存在するものなのでしょうか?
その2つが「対立している」、「相反している」というジャッジは、私たち自身の個人の意識が行っているもの。
たとえば、あなたが主観的に「対立している」と思うものも、他の人から見たら「どっちでも同じ」ようなものかもしれませんよね。
つまり、「対立」「相反」という構造を想定している、私たちの意識自体が変化すれば、その区別そのものが不要になると考えられるのです!
これこそが、スピリチュアル的に言えば、「目覚め」「アセンション」へと向かっていく上で重要な「統合」の運動そのものです。
哲学の領域でも、20世紀後半に、「脱構築」という考え方が登場しました。
これは、「ポスト構造主義」という思想潮流の旗手とされる、フランスの哲学者ジャック・デリダ(1930-2004)の用語です。
近代西洋哲学が前提としてきた二項対立の構造(たとえば、主体↔︎客体、内部↔︎外部、男↔︎女、話し言葉↔︎書き言葉など)自体を疑い、それを解体していくのが、「脱構築」。
つまり、そもそも「対立」「相反」というジャッジを下している私たちの意識を問い直すところから、思考をはじめる態度なのです。
スピリチュアル的な「統合」というのは、「弁証法」ではなくて、まさにこの「脱構築」なのだと思います。
(仏教における「中道」というのも、二項対立の間を取る「弁証法」的な試みだと思われがちですが、実はその元々の意味としては、二項対立を無効化する「脱構築」的な試みだと考えられます。)
次回は、この「脱構築」としての「統合」のプロセスを、身近な具体例に落とし込んで、もう少し分かりやすくお話しします!お楽しみに。