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「愛」ってなんだろう? − スピリチュアル的に考えてみた


突然ですが、みなさん、「愛」って一体なんだと思いますか?

男女のロマンティックな恋愛をイメージする方も、家族をつなぐあたたかい親愛の情をイメージする方もいるでしょう。

一緒にいて楽しい友達や、仕事仲間に対して抱く、友愛の気持ちをイメージする方もいるかもしれません。


「愛」は、私たちにとってすごく身近なもの。


しかしながら、その内実はよくわからないものでもあります。


スピリチュアルの世界においては、自他を愛すること、あらゆる人と「愛」でつながることが重要だ、と言われることが多いです。


YOKU STUDIOのnoteにおいても、たびたび「愛」の意義については、お伝えしてきました。

「目覚め」、そして「アセンション」を経て、集合意識的に、自他の区分のない共同体の一員として生きていけるようになった時。


そのような共同体の一員同士をつなぐエネルギーは、まぎれもなく「愛」のエネルギーです。


しかし、ここで言う「愛」は、「〜が好き!」、「〜と一緒にいたい!」、あるいは「〜のためならなんでもできる!」といった感情のレベルとは異なるものです。


「愛する」ことは、「好きになる」ことでも「求める」ことでも、「尽くす」ことでもないんです。


ということで、今回のテーマは、「愛」についてです!




・「愛」の6分類 





心理学や哲学の領域では、「愛」について、様々な議論が重ねられてきました。


有名なのは、カナダの心理学者であるジョン・アラン・リーによる「ラブスタイル」の分類です。


リーは、人間の愛のかたちを、このような6つのスタイルに分類して考えました。



 


・ルダス(Ludus、遊びの愛)

・プラグマ(Pragma、実利的な愛)

・ストルゲ(Storge、友愛)

・アガペー(Agape、献身的な愛)

・エロス(Eros、情熱的・エロティックな愛)

・マニア(Mania、熱狂的な愛)



 


あまり説明がいらないくらいに分かりやすい分類だと思います。


スピリチュアル的に重視される「愛」に近いのはもちろん、「アガペー」ということになるでしょう。


ゲーム感覚で軽い恋愛を繰り返したり、相手を一方的に崇めて執着したりするのではなく。


また、肉体的な欲望や物理的な利益のために相手を追い求めたりするのでもなく。


純粋に相手を愛するのが「アガペー」です。


でも、ここで考えたいのは、この分類における「アガペー」が持つ、「献身」の意味合いです。


純粋な「愛」というのは、相手のために身をささげて自己犠牲もいとわない、利他的な「愛」でなければならないのでしょうか?




・「隣人愛」としての「アガペー」≠「献身の努力」




そもそもこの「アガペー」とは、『新約聖書』において、神から人間への無条件の愛であり、イエス・キリストが説いた人間同士の無条件の愛を指す言葉です。


あまりにも有名なキリストの「隣人愛」、「あなた自身のように、あなたの隣人を愛しなさい」という教えは、まさに「アガペー」の教えであると言えるわけですね。


キリストの「隣人愛」=「アガペー」の教えは、キリスト教の大事な教義のひとつです。


しかし、それを「義務」だと捉えて、「他者を愛さなければ!」と努力してしまうと、それは「アガペー」の本来の意味からは離れてしまうように思います。


キリストが説いたのは、「自分を愛すように他者を愛すこと」、つまり、自他の境界のない愛そのものではないでしょうか。


たとえば、あなたは普段、「自分のことを大切にしなければ!」と一生懸命がんばるでしょうか?


おそらくそんなことはしないでしょうし、努力して自分を労わるというのも変な話ですよね。


「アガペー」とは、もともと、「献身の努力」ではないはずなのです。


他者を愛そうと「努力」する必要があるのは、「自分」と「他者」の間に明確な境界を想定しているから。


「努力」をして他者を愛そうとしても、それでは結局、自他の境界を超えられないゆえに、どうしても苦しくなってしまう。


「自分」と「他者」の境界を意識せずに、自然なエネルギーの循環ができる状態こそ、本当の「隣人愛」であり、「アガペー」なのではないかと思います。







・スピリチュアル的「愛」=自然なエネルギー交流


スピリチュアルの世界で語られる「愛」も、「アガペー」と同じく、献身的・奉仕的なイメージが強調されることが多いです。


だからこそ、「他者を愛しましょう」と言われた時に、なんとなく慈善活動のような、仲良しクラブのような印象を持ってしまうんですね。


けれど、自分のことを我慢して他者に尽くすことは、純粋な「愛」とは言えません。


なぜなら自己犠牲は、「自分」と「他者」の境界が明確であるからこそ、成立するものだからです。


ほんとうの自他を超えた「愛」は、もっともっと自然なもの。


無理をして、あらゆる人のことを好きになる必要も、あらゆる人に尽くす必要もないんです。

ただそこに他者が存在していることを、自分が存在していることと同じように、リラックスして認めること。


そのような自然な状態のなかで、お互いに楽しくエネルギーの交流をしていくこと。


それこそが、純粋な「愛」なのではないでしょうか。



「目覚め」、「アセンション」へと向かっていくこの時代に生きる私たちは、本来の意味での自然な「隣人愛」=「アガペー」に満たされて生きていくことができるはずなのです。




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